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【乳がん患者家族体験談】思春期である子どもの親が病気になったとき、僕ができること

本藤 幹己(ほんどう もとき)さん
乳がんサバイバーの母親の長男である、高校3年生
大学受験を控えた本藤さんに、オンコロスタッフ中島がお話しをお伺いました。

目次

すべては母の病気から始まった

中島:お母さまが乳がんに罹患された時の状況をお聞かせください。

本藤:自分が、中学3年生だった2016年の6月でした。母から直接、病気について説明がありました。

中島:その時の心境は、どのようなものだったでしょうか。

本藤:ただただ驚くばかりでした。同時に、不安の感情も抱きました。「がん」というと、当時の自分の中では社会的に「死」と言われていたイメージがあったからです。

母とはよく会話を交わす仲で、その母がいなくなってしまったらどうしよう、という恐怖感がこみ上げてきました。当時、まわりにがんに罹患した知り合いがおらず、母の病状についてよく理解していなかった点が影響していると思います。

その前の年に、小さい頃から可愛がってくれていた祖母が他界しました。祖母はがんではありませんでしたが、その時初めて「死」というものが身近な存在になりました。

中島:お母さまの治療はどのように進んでいきましたか。

本藤:母は、告知を受けた病院で治療予定でしたが、いろいろ考えて、別の病院に転院して治療を開始しました。

2016年の8月に手術を受けましたが、自分は夏休みの部活合宿中で、母の入院中はお見舞いに行くことができませんでした。

術後の抗がん剤治療は通院で、2016年11月から2017年の4月まで受けていました。

副作用は、「手足の痺れがある」こと以外、母は口にしませんでした。おそらく倦怠感や吐き気もあったと思うのですが、自分たち家族に心配させまいと我慢していたのかもしれません。

中島:本藤さんは、どのようにお母さまを支えていましたか。

本藤:自分では覚えていないのですが、母から病名を聞かされた時、ショックで学校を2日ほど休んだそうです。 母は、「これでは息子が精神的に落ち込んでしまう」と予測がついたようで、チャイルドケアのある病院へと転院を決めたようです。家族にできるだけ負担や迷惑をかけないベストな標準治療の情報を、母なりに探したのだと思います。

自分は、支えるどころか母の抗がん剤治療開始後から、学校を週半分ぐらい休んだり、遅刻が多くなり、11月末には「母の看病のため」と理由をつけて2週間ほど休まざるを得ないほど、精神的に追いこまれていました。

今振り返れば、抑うつ状態だったとわかるのですが、元々自分は自身の気持ちに鈍く、状況把握ができずに追い込まれていたのかもしれません。

学校に行けないほど、体調面や精神面も悪いはずなのに、無理に頑張って母の代わりに家事をやろうとする自分がいました。

初めて直面する孤独と葛藤

中島:当時、そのことを相談できる友人はいましたか。

本藤:ご両親が医療従事者であるクラスメイト1人だけには、事情を打ち明けました。自分が学校を休みがちだったので、「そういうことだったのか」と、理解してもらえました。

学校の中では、担任の先生とこの友人以外には話していません。あえて公表することでもないと思っていました。

中島:その状態から、どのように立ち直っていったのでしょう。

本藤:母のかかりつけ病院に、がん患者の子どものサポートする部署がありましたが、残念ながら12歳以下が受診対象で、もうすぐ15歳だし、他の病院(心療内科)を自分で探すようにと言われました。

抗がん剤治療中の母に余計に心配をかけてしまう形になりましたが、12月半ばに母の付き添いで別の病院の小児科を受診しました。小児科医長の医師は、診療時間外に3時間ほどの時間をかけて、自分の話しを聞いてくれました。

その医師からかけていただいた、「君は自分の人生を生きなさい」と印象的な言葉は、今まで一人で抱えていたモヤモヤとした気持ちが少しクリアになるきっかけとなりました。

その後、母の通う精神腫瘍科にも行ったこともあります。自分を担当した医師は、患者の気持ちを持ち上げてくれるのが上手でとにかくポジティブ志向な先生でした。受診していくうちに、自分の中に残っていたモヤモヤが解消されていきました。

中島:休みがちだった学校生活から、また社会への復帰のきっかけは何だったのでしょうか。

本藤:民間企業が開催するITプログラミングのクリスマスキャンプに、3泊4日で参加する予定になっていました。

知り合い同士の学校の環境と違い、そこではみな初対面の同年代の集まりでした。気を遣うこともなく、少しだけ現実逃避することもできて、精神的に回復していくことが実感できました。

たったひとりでの挑戦

中島:それまでの経験で、初めての気づきがありましたね。

本藤:がん罹患率が高いこの時代に、自分のような悩みを抱えている思春期の人たちが絶対に大勢いるはずです。

現在、子どもの精神的サポートというと、前述のように12歳以下の子どもが対象にしている施設はとても多いのですが、中学生から高校生にあたる思春期の年代のケアが欠けているような気がします。

この年代は、周囲の影響を受けながら大人としての自己を確立するナイーブな時期であり、日常生活での問題は丁寧に解決するべきだと考えていますが、そのシステムが中々見当たりません。

中島:そのシステムを構築する挑戦を始められましたね。具体的に教えてください。

本藤:自分と同じような境遇の思春期にあたる同年代の人たちが、全国に大勢にいるはずです。

母から罹患を告げられたあの時の孤独感、社会からの疎外感、当時のまわりの友人たちとのギャップを感じたからこそ、取り残されたあの気持ちが忘れられません。

お互いが共有し合い、分かち合える場がないのであれば、自分でその機会を作ってみようと考えました。

自分でチラシを印刷し、病院へ配架してもらい、過去2回都内でお話し会を開催しています。

親ががんに罹患している10代の子ども達が集まり、ゲームをしたり、それぞれの想いを聴いたり、和やかな雰囲気でお話しをすることができました。

希望を持って花を咲かせて

中島:会を主催するにあたり、なにか特別な勉強をしたり資格を取ろうとされていますか。

本藤:子ども達と接する際は、「自分はひとりの人間として接したい」、「専門性スキルも肩書きもいらない」と思っています。

資格などを取得すると、ひとつの角度からしか物事が見えなくなってしまう可能性が怖いのです。子ども達は感受性豊かですから、そういう点はすぐ関知してしまうでしょう。

自分は、「常に真っ白でいたい」、「大人も子どもも関係なく寄り添いたい」、会の主催者としてそう心がけています。

将来的には心療専門家や医療関係者と連携し、自分はその橋渡しができればいいと思っています。

お話し会の名称「Wish in Bloom !」は、思春期の子どもたちが、「これからの人生に希望を持って花を咲かせる」という意味を込めてつけました。

必要としている思春期の人たちと繋がりを

中島:今後の会の活動計画を教えてください。

本藤:まだ2回しか開催していませんが、開催告知が難しいです。病院へちらしを配架いただいても、思春期の子ども達が手に取ってもらえているか、そのアプローチが大変ですね。

中学校や高校、行政へもちらしを置いていただく必要があることもわかってきました。今は、会の存続に向けて自分で模索しながら課題を掴み取っていく段階です。

また、自分ひとりで全国すべての地でこの会を開催することは不可能ですので、試験的にオンラインによる組織化もしていきたいです。

全国どこにいても、お互いの気持ちを分かち合える方法はSNSだと考え始めています。一般社団法人キャンサーペアレンツは、SNSを上手く活用されている、目標とする団体です。

個人でTwitterの運用を始めてみましたが、このあいだ遠方からコメントを送ってくださった人がいました。また、思春期の年代に自分と同様の経験をしとても辛い思いをした、という大人の人からもメールをいただきました。

全国に、同様の人たちがいて、自分のような存在を必要とされているんだという実感がありました。この意味を含めると、オンラインの活用は必須だと考えています。

中島:会の課題を挙げるとしたら、どのような点でしょうか。

本藤:10代の人たちを繋げるには、テストシーズンやインフルエンザが流行している季節などに重ならないように、開催スケジュールを熟考する必要があります。

また、会の運営には資金が必要です。寄付を募るのか、会の基盤となる事業を立ち上げるのか、自分ひとりだけの運営には限界があるので組織化していくのか、などこれからの課題が蓄積しています。

中島:全国の同じような体験をもつ思春期の人たちへメッセージをお願いします。

本藤:精神的にとても辛かったのは、闘病している親の姿をみる孤独感、社会から取り残されたという不安や孤独、まわりの友人には話せないことでした。

特に思春期の年代は、学校以外の世界をあまり知りません。思春期の子どもは、全国にいます。だからこそ、必要とされている思春期の人たちと繋がっていきたいのです。

本藤幹己さんお問い合わせ先:amairo.motok1@gmail.com

(取材・文:中島 香織)

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