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【舌がん体験談】すべては夢のために~幾度の手術を乗り越えて~

※本記事には手術後の傷跡の写真が掲載されております。ご覧の際はご注意ください。

目次

虫の知らせ?!

2015年7月末、趣味のサーフィンで耳に水が溜まったことから耳鼻咽喉科のクリニックを受診し、舌の異常が見つかりました。自覚症状は全くありませんでした。

しかし思い返せば、いつも舌に歯形がついていましたし、寝ている間によく舌を噛んでしまうことがありました。そして、大きい病院で見てもらった方が良いと紹介状を渡され、その翌週、大学病院で舌の超音波検査と生検を行いました。

がん告知

次の診察で、医師から告げられたのは「舌がんを強く疑う」でした。頭が真っ白になりました。「バリバリ運動して、煙草も吸わない、お酒もほとんど飲まない私が、がん?!半年前に保険を見直したときに、『うちはがん家系じゃないからがん保険はいりません』と言ったばかり。

でも、ステージⅠなら5年生存率は90%以上、発語明瞭度も80%以上に回復するそうだから大丈夫」とそこで思考停止しました。その日は他に転移がないかを確認するため、超音波検査とCT検査を行い、後日転移がないことがわかりました。

若いからと直近の手術日を押さえてくれましたが、手術までわずか1週間程度しかなく、今後の人生を左右することなのに、良く考える時間も精神的余裕もありませんでした。

手術は麻酔を含めて3時間程度でした。舌を3分の1ほど切除したため、しばらくの間、経鼻経腸栄養をせざるを得ず、2週間の入院生活で、体重は62kgから52kgにまで減ってしまいました。

退院後の診察で、「断端陽性(切り口にがんが残っている)の可能性がある」と告げられ、がん専門病院にセカンドオピニオンに行くことにしました。そこでは陽性だった場合には予防的にさらに大きく舌を切除して、頸部廓清をしましょうと言われました。


※右上内頸静脈リンパ節への転移がみつかったCT画像

再発・転移で、ステージⅣaに

2015年9月中旬に職場復帰してから間もなく首のリンパ節にビー玉サイズのコリコリとしたものがあることに気付きました。腫瘍がリンパ管まで達していたので、覚悟はしていたつもりでしたが愕然としました。

次の診察時にそれを伝えるとすぐさま検査となりました。結果は悪性で、リンパ節2つに浸潤があったため、わずか2か月ほどでステージⅠからステージⅣaになってしまいました。

2度目の手術は、舌半側切除、頸部廓清、遊離皮弁による再建術を勧められました。それらは後遺症が大きく、食べることや喋ることが難しくなります。複数の治療法をもっと調べておけばよかったなと思いました。また、セカンドオピニオンのがん専門病院でも若いから放射線療法のカードは残しておくべきと同様の手術を勧められました。

結局私が選んだのは、がん専門病院での、舌半側切除、右頸部廓清、前腕皮弁による再建術でした。舌を大きめに切除して、失った舌の代わりに左前腕の筋肉と動脈、静脈を移植し、左前腕には鼠蹊部の皮膚を移植するという、アピアランスや機能温存よりも命を優先したものとなりました。

2度目の手術は10時間にもおよびました。目が覚めるとICUにいました。身体中に管が繋がれ、動くこともできませんでした。痛み止めで朦朧とする中、1時間おきに再建した舌に針を刺して状態を確認するので、おちおち眠ることもできません。そんな日が2日間続きました。

3日目に面会に来た当時1歳に満たない娘が私のあまりの変貌ぶりにギョッとした顔がいまでも忘れられません。5日間のICU生活を終え、一般病棟に移されましたが、術後肺炎にかかり、40度を超える熱に苦しめられました。気管切開もしたので、もちろん喋ることもできず、コミュニケーションはすべてジェスチャーと筆談でもどかしさを感じていました。また、痰も自分で出せないので、看護師さんに吸引器で取ってもらうのですが、それがとても痛くて苦しかったです。

結局42日間もの長い入院生活を送りました。


※頸部郭清術の傷痕


※前腕皮弁による再建術の傷痕

退院後、社会から見放されたような気分。死にたい…

本当の地獄は退院してからでした。

病院では上げ膳据え膳だった食事を自分で取らなければなりません。でも、病院食のような食事が作れる余裕もなく、経腸栄養剤とおかゆで命をつないでいました。

病院では滑舌の悪い私の言葉を先生や看護師さんが上手に聞き取ってくれていました。でも、家族ですらまともに通じませんでした。コンビニで「レターパックライトをください」と伝えたところ、アルバイトの男性が私の話し方に驚いて「すみません、すみません」と言ってすぐさま店長を呼びに行ってしまいました。これがトラウマになり外出することが恐くなりました。家に引きこもって、自殺も考えるようになりました。

しかし、若年性のがん患者の体験談をつづった冊子やインターネット上のがん患者の体験談をみて、「どうせ死んでしまうなら、好きなスノーボードをとことんやってやろう」と思うようになりました。

スノーボード復帰へ

医師に中学生の頃からやってきたスノーボードをしたいことを告げると、「目標を持つことが一番のリハビリになるから、体に無理がなければ行ってもいい」と言ってくれました。

雪上に復帰したのは正月明けのことでした。しかし、体のダメージは予想以上に大きく以前と同じように滑れず途方にくれました。

悔しくてトップ選手のDVDや手術の前に参加した講習会の資料などを参考にフォームを研究しました。食事がとれないので、雪上で練習できるのは週1~2日、3時間程度でした。それでも、筋力がなくなり力みが抜けたのが功を奏したのか、力任せに滑っていたフォームから、重力や遠心力などの外力と調和できるフォームに変わりました。以前の私は雪と喧嘩していたように思います。さらに、「もしかしたら来年はこの場に立てないかもしれない」という気持ちは自然と集中力を高めてくれました。

そして、退院から3ヶ月後の全日本スノーボード技術選手権大会で5位入賞し、念願の(公財)全日本スキー連盟SAJスノーボードデモンストレーター※になることができました。さらには、翌年の全日本スノーボード技術選手権では自身最高位の2位に入るなどがんに罹る前よりも成績が向上しています。失ったものはたくさんありましたが、得たものもありました。


※第14回全日本スノーボード技術選手権大会表彰式(右から2番目)

夢を持つことの大切さ

私はスノーボードがしたい、スノーボードデモンストレーターになりたいという夢があったからこそ、どん底を乗り越えることができました。スノーボードじゃなくても、スポーツじゃなくてもいいんです。みんなにも夢を持ってもらいたいと思います。

私のこれからの夢は、全日本の大会で優勝することです。なぜなら、がんじゃない人の中で活躍することは、がんの啓発になると同時に、がんサバイバーの励みにもなると思うからです。そして病気や障害があっても、誰もが夢を持てる社会の実現に貢献していきたいと思っています。

※スノーボードデモンストレーターとは、「インストラクターのインストラクター」、「滑る教程」などとも言われる、いわばテクニカル(基礎)スノーボードの頂点で、デモンストレーター選考会で2年に1度選ばれます。

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