清水公一さん(41歳)
ステージⅣ(診断時はステージⅠb)の肺がんサバイバー。
2児の父。NPO法人肺がん患者の会ワンステップ会員。
*清水公一さんは、2019年4月2日(火)に京都で行われるがん情報サイト「オンコロ」
【ノーベル賞受賞記念スピーチ@京都】本庶 佑先生の偉業を称え、感謝を伝える会
にて、ニボルマブが奏功した肺がん患者として、登壇されます!
33歳で結婚し、2012年、35歳の夏に子どもが生まれた直後の11月に肺腺がんステージⅠbの診断を受け、手術を受けた清水さん。
治ったと思ったのも束の間、翌年の8月、遠隔転移が見つかりステージⅣとなり、抗がん剤治療を経験。その後も脳転移が見つかり、ピンポイント照射の放射線治療を受けるも再度の脳転移に、一時は死を覚悟しエンディングノートも書いたと言います。
その後、免疫チェックポイント阻害剤(オプジーボ)が著効し、2017年11月には、2013年に凍結保存した精子で2人目のお子さんが生まれ、未来に向かって歩んでいる清水さんに、今までのこと、これからのことを、「オンコロ」コンテンツ・マネジャーの柳澤昭浩が聞きました。
目次
「切れば治るのかな」
柳澤:はじめに、がんになる前の清水さんについて、教えてください。・・今日の洋服はオジー・オズボーンのトレーナーですか?
清水:はい。僕は、高校では軽音楽部に所属して、ギターをやっていました。特にランディローズがギタリストだった時のオジー・オズボーンが大好きですね(笑)。
大学を卒業したあと、メーカーに就職しましたが、和菓子を作るお店に転職して、店長も経験しました。
その後、保険会社に転職するために健康診断を受けた際に肺がんの疑いが・・・。子どもが生まれて3ヶ月のときでした。
柳澤:お子さんが生まれたばかりの時期に、診断を受けられたのですね。
清水:肺がんの診断を受けた時は「死ぬのかな」と思いましたが、転移はないと言われたので、自分でもいろいろ調べて「切れば治るかな」と思うようになりました。
子どもが生まれるのに備えて、育児のために転職の期間を1ヶ月先にしていたことで、障害年金、企業年金などが出ないため、そんなことを後悔したりもしていました。
ただ、がん家系だったこともあり、がん保険を手厚くかけていたので、診断一時金で車を買ったりもしましたね(笑)。
その後、2013年8月に、PET検査で左の副腎に遠隔転移がみつかりました。最初の診断より遠隔転移のほうがショックで、ステージⅣ、厳しい状況であることを突きつけられました。
転機となった遠隔転移
柳澤:術後1年未満でそのような状況になったのですね。2回目の大きな転機ですね。
清水:主治医からは、全身を対象に抗がん剤をやりましょう、と言われたのですが、転移のある副腎に対して手術をお願いしました。
左副腎を切除して経過観察をしましたが、その後すぐに右半身に麻痺が出てきて脳転移がわかりました。その当時は肺がんに関する知識もそれほどなく脳転移は命にかかわる、との理解でいたので、もう死ぬかもしれない、という思いでした。精神的にも不安定になり、何をしていても落ち着かない状態でした。
柳澤:その時のお気持ちのなかで、当時の治療選択肢はどのように示されたのですか?
清水:治療としては、放射線治療しかなかったので、選択肢を迷うことはありませんでした。
腫瘍が大きかったので、3回に分けてガンマナイフ(ピンポイント照射の放射線治療)を行いましたが、その後すぐにまた再発し、再度ガンマナイフをやりました。
自分は「治したい」という思いで治療に臨んでいましたが、主治医は今後再発する可能性が極めて高いということでした。
セカンドオピニオンからの決意
柳澤:抗がん剤治療はどのような経緯で開始されたのですか?
清水:主治医からは、いま画像上がんはどこにもないので再発してから抗がん剤をやりましょうと提案されましたが、自分は、再発する可能性が極めて高いなら予防的に抗がん剤治療を開始したいと、考えが一致しなかったため、他の大学病院にセカンドオピニオンを取りに行き、転院して治療を開始することになりました。
私の肺がんには遺伝子変異がなく、シスプラチン+アリムタ+アバスチンを2013年12月から始めました。副作用はきつかったですが、治したい、という気持ちが強かったので、苦ではありませんでした。
転院先は大学病院だったのですが、医師から、抗がん剤開始前に精子の凍結保存を提案されました。凍結保存をする、ということは、そのあと元気になって子供を持てるようにする、という意味であり、未来の人生を前提としたスタンスに励まされました。
何度も訪れる危機
柳澤:抗がん剤治療はずっと続けられたのですか?
清水:一通りの治療後は、アリムタ+アバスチンの維持療法を2016年まで、長く続けました。それなりに副作用もあり、体に画像上がんはなかったので、このまま治ることを期待して2015年8月に一時休薬をしたのですが、2016年の8月に脳転移がわかり、ガンマナイフ(ピンポイント照射の放射線治療)と、抗がん剤治療を再開しました。
しかし同年12月に再度脳転移と、脊髄にも2箇所転移がみつかり、癌性髄膜炎との診断を受けました。ネットで調べると、ネガティブな情報ばかりで、治ったという情報がほとんどなく、今度こそ終わりかと思い、エンディングノートも書きました。
柳澤:何度も危機を乗り越えてこられたけれど、その時は本当に死を覚悟されたのですね。
新薬が起こした奇跡
清水:抗がん剤は脳転移には効きにくいと聞いていたので、さすがにもうダメだと思いました。でも、その前年12月にオプジーボが承認され、肺がん治療に使えるようになっており、私も2016年12月中旬からオプジーボによる治療をスタートしました。
すると、1月の診察の時には、腫瘍マーカーであるCEAが下がり、2月にはさらに下がったんです。3月には、MRIで、髄膜炎も脳転移も劇的に改善していることがわかりました。奇跡が起きたと思いました。
柳澤:薬の承認のタイミングがもう少し後だったら、今のような状況ではなかったかもしれませんね。
清水:本当に、ここまで人生を変えてくれた薬に、感謝の気持ちしかないですね。ここにたどり着くまでの過程を振り返ると、なんて恵まれているんだろう、と思います。亡くなる仲間もたくさんいますから。
オプジーボのおかげで、家族全体で未来を向けるようになって、世界が常に輝いているように思えました。抗がん剤治療を開始する際に凍結保存していた精子で、2人目の子どもを授かることもできました。
柳澤:清水さんが同じ病気の方々に伝えたいことがあれば教えてください。
清水:私は本当に運が良かったのだと思いますが、治療は常に自分で決めてきた、ということは自分で良かったと思っています。死ぬ時に後悔しないように、との基準を持って、自分の命のことを自分で決めてきました。医師のいうことはあくまで、お勧めでしかなく、戦国時代で言えば、大名が自分で先生は軍師です。責任は自分で取らなくてはなりません。後悔しない選択をしてほしいと思います。
柳澤:未来に命をつなげましたが、これから清水さんがしたいことについて教えてください。
清水:がんになったときに障害年金を受給しました。昨年入院したときに仕事を辞めざるを得ない状況になり、再就職が厳しい状況になりました。いろいろ考えることがあり、社会保険労務士になろうと考え、勉強をしていましたが、先日試験結果がわかり、1点足りなくて落ちてしまいした(笑)。
がん患者の役にたちたい、これらもチャレンジしていこうと思っています。
人生の大事な時期にがんになって、失ったものも大きいとは思いますが、悔しいので、がんになって良かった、と思えるようにどうしたらいいか、と考えて、がんになって、社労士になって自活できれば、がんになったことをプラスに思えるのではないか、と思い、がんばっています!
NPO法人肺がん患者の会 ワンステップ 代表の長谷川一男さん(写真左)と。