二宮みさきさん
IT企業の正社員として就業中
乳がんサバイバー/現在はホルモン療法治療中
IT企業の企画を担当されている二宮さんに、オンコロスタッフ中島がお話をお伺いしました。
目次
まさか自分が
中島:病気が診断されるまでの経緯を教えてください。
二宮:2015年の年明けに、しこりがあるのではないか、と自分で違和感を感じました。洋服を着替えている時か入浴中の時だったか、定かではありません。ふとした瞬間に気になってはいましたが、当時28歳という年齢から、まさか自分ががんに罹患しているとは、想像がつきませんでした。
その後、会社単位での健康診断を受診する予定だったので、念のためオプションで「乳がん検診」を追加して申し込んでおきました。
検査方法は、マンモグラフィ検査の対象外の年齢でしたから、超音波のみでした。
検査中、怪しい影が映っていたようで、2名の技師さんに診ていただきました。
その日のうちに検査結果をいただくことができて、「必ず病院で念入りに診てもらってください」とご指導を受けました。
「石灰化している」など、当時はまったく知らない言葉での説明は、自分でも「これは、悪い結果かもしれない」と、その場で直観しました。
中島:健診で要再検査になったのですね。
二宮:はい。その後、あいだをあまり開けずに、乳腺外科で超音波とマンモグラフィ検査を受けました。
検査結果はその日のうちに説明があり、そのまま針生検の検査を勧められました。
ますます「これは本当に悪い結果かもしれない」という思いが確信に変わっていきました。
中島:針生検の結果は、どのように説明されましたか。
二宮:「診察室には、ご家族も一緒に入ってください」と看護師さんから声をかけられ、精密検査から付き添ってくれていた夫とともに、乳がんの告知を受けました。
ネットで読んだ「20代の乳がん罹患者は少ない」という情報を信じたかった一方、健康診断で2名の技師さんに診ていただいた経緯から、「だいぶ怪しい影だったのだろう」という考えが、交錯していたと思います。
それでも正式に「悪性腫瘍」という診断が下った時は、やはり「まさか自分が」というショックが大きかったです。
後日、腫瘍の正確なサイズや、遠隔転移はしていないかを調べるために、CTとMRIの検査を受けたと記憶しています。
結果、サイズはそれほど小さいとは言い難い3cm以上、HER2陽性タイプということが判りました。
幸いなことに他の臓器への転移はありませんでした。
AYA世代での罹患
中島:治療方針が決定するまでを教えてください。
二宮:28歳という、まだ若い年齢だったため、主治医から妊孕性について説明がありました。
子どもを産みたいという希望があれば、乳がんの治療を始める前に受精卵を予め凍結保存する、とのことでしたが、夫と相談した結果、早く乳がんの治療を進めたかったので、将来の妊娠については自然の形に任せることにしました。
腫瘍の大きさから、全摘を勧められましたが、術前抗がん剤と並行して術前ハーセプチンを投与し腫瘍を小さくしてから温存する方法もある、と提案されました。
ただし、術前の治療が功を奏しない場合があるので、手術前に奏効状態を確認したうえで、「全摘か温存かは自分で決めてください」との、説明がありました。
これまでの主治医の説明に、ひとつひとつ納得して治療に臨むことを決意したのでセカンドオピニオンは受けていません。
抗がん剤の副作用は
中島:治療を開始されてから、心理的な変化はありましたか。
二宮:副作用を確認するために3泊の入院を経て1回目の抗がん剤投与を終えた後、腫瘍が小さくなったことを、不思議なことに実感することができました。
診断直後は、「自分の胸にそれほどこだわりはない」と考えていましたが、「全摘して再建するにも身体に負荷がかかる」と、温存したいという気持ちに変わっていきました。
中島:身体的な変化はいかがでしたか。
二宮:術前に抗がん剤治療とハーセプチン治療を、約半年受けました。
副作用は人それぞれ違いますが、3クール目ぐらいから吐き気が強く出ました。これがあと半年も続くのか、と落ち込みましたが、辛くなる波と普通に生活できる波がだんだん自分でも把握することができたので、治療とうまく付き合うことができました。
自分が体験した副作用の中に、吐き気のほかに脱毛がありました。
無理に、罹患前の姿に合わせるとどうしても不自然に見えてしまうのではないかと思い、あえて明るい色のウィッグや、長めのつけまつげで、コスプレファッションを楽しみました。少し派手めのおしゃれをして、自分を鼓舞していたのかもしれません。
ウィッグは、ネットで数千円のものを最終的に5個ぐらい購入しました。治療が終われば、髪は生えてくると信じて、あえて高額なウィッグには手を出しませんでした。
通院で、外来抗がん剤室の看護師さんたちから「そのウィッグ、似合ってるわね。」と声をかけられて、嬉しかったし本当にありがたかったです。
そして手術
術前の治療が終了して再度精密検査をした結果、温存を選択できるほど腫瘍は小さくなっていました。
最終的に、主治医と相談して乳房温存手術となりました。
入院は、手術後に微熱が出たぐらいで、腕も突っ張りはありましたがすぐ挙がり、翌々日には入浴も許可され、5日で退院することができました。
仕事と治療とのバランス
中島:診断後、職場へはどのように伝えたのでしょうか。
二宮:私は、罹患するまで、やりがいを感じながら楽しく業務に没頭していました。
術前の抗がん剤とハーセプチンの治療にあたり、まず上司に罹患の報告をしました。この時はとても緊張したことを覚えています。
上司は非常に驚いた様子でしたが、身内に乳がんに罹患された方がいらっしゃって、「身内も今は元気だし、絶対元気になるから大丈夫。仕事も心配することはないから。」と声をかけてくださいました。
同僚へ報告した時は、励ましの言葉をかけてくれた人もいれば、冷静に受け止めてくれた人もいて、その反応はさまざまでした。
中島:治療中、お仕事はお休みされましたか。
二宮:治療が一段落してから復職することを目標に、約8カ月休職させてもらいました。
がんに罹患した人が私のまわりにおらず、副作用が生活にどれほどの影響をもたらすのか全くわからなかったので、休職前は「治療が終わっても、本当に今まで通りに働くことができるのだろうか?」と、一抹の不安はありました。
復職は無理かもしれない、と最悪のシナリオも頭の隅にありました。
休職中は、溜まっていた有給休暇を消化し、傷病手当と高額医療費控除を利用して、生活費をやりくりしていました。
術後の放射線治療までの8カ月休職し、復職してからは、術後ハーセプチン治療のために3週間に1日の半休をいただきながら1年通院したことになります。今は、ホルモン剤を服用しながら、経過観察中です。
それぞれのAFTER 5
中島:治療が落ち着いた今、お気持ちの変化はありましたか。
二宮:早いもので、もうすぐ術後5年を迎えることになります。
病気がわかった時、自分のまわりやネットでは、手術して5年たった方たちの情報を見つけることができませんでした。
がん罹患者の生存率が上がったとはよく耳にしますが、術後5年の実際の人生は具体的にどのようなものなのか、不安になりました。
ただ、生存していればいいということではない- 28歳でもう仕事は出来なくなる?旅行ができなくなる?そんな人生を送りたくはありません。
情報がないのであれば自分で開設してみようと、私の考えに共感してくれた仲間を集めてAFTER 5というサイトを立ち上げました。
がんや難病の治療中の方、完全寛解された方など、術後または治療後5年を経た方へ、インタビュー記事を公開しています。
インタビュー内容は、病気のこと、ご家族のこと、結婚問題、子どもへの伝え方、仕事の事、転職の面接で病気のことを伝えたのか、など生活をしていく中で具体的に細かい事項をお伺いして公開しています。
インターネット業界に身を置くものとして見えてきたもの
中島:罹患前に就業されていた企業に、復職されたのですよね。
二宮:はい。IT企業に勤めているので、ネットはもともと身近な存在でした。
患者自身が発信するブログは、情報の発信の仕方によっては、読み手にとって苦痛を感じる可能性もあります。
ネガティブな感情を吐露した内容であれば、自分の体験と重ねて辛くなるので、闘病中はあまり読むことができませんでした。
また、検索すれば間違った情報も簡単にネットで読むことができることも、問題です。
ネットの存在ってそれでいいのかな、と課題意識を持つようになりました。
告知後は、ネットでご自身の病気について調べることが当たり前になっていますが、気持ちが落ち込んでいる告知直後のタイミングで、ネット情報すべてを鵜呑みにし、感情を乱さないで欲しいと思います。
私自身を含め、病気について情報を発信する者は、それを受け取る方たちがどのような気持ちになるかを常に意識をしていけると良いのかなと思います。
そして医療従事者の方々も、ネット情報の現状を患者さんへ啓蒙していただきたいです。
著名人の方々がブログで情報発信することはすばらしいと思いますが、自分と年齢や病気が近い方のものは、つい感情移入し過ぎてしまいます。私は気持ちが元気な時に、応援する意味を込めて読むことが多いです。
一方でメディアが、患者や闘病状況をセンセーショナルに取り上げるのは、いかがなものかとも感じています。
がん種もステージも治療法もひとそれぞれ。
自分の置かれた身をどう受け入れるか、人と比べず、自分の意思で治療を選択し、それを信じて自分らしく闘ってほしいと思います。
二宮みさきさんブログ:おっぱいサバイバー
二宮みさきさん運営サイト:AFTER 5