くるくると動く表情豊かな大きな瞳と、そこにいるだけでその場の雰囲気まで明るくしてしまう魅力的な徳永さん。29歳(AYA世代)で悪性黒色腫に罹患されました。彼女が“がん”を通して感じた体や心の痛み。そこから見えた、家族・仲間の大切さ。そしてご自身の生き方。今回のインタビューは、読者の皆さまが「“メラノーマ”という病気」と「“普通の日常”の大切さ」を考るキッカケになるのではないでしょうか。
名前:徳永寛子さん
年齢:33歳
性別:女性
居住:東京都
職業:グラフィックデザイナー、着物の着付け・販売
メラノーマ(悪性黒色腫)体験者(2012年に病気発覚)
目次
■受診の経緯
家族の「そのホクロ変じゃない?」っていう言葉がきっかけでした。自分では見えない場所だった事もあり気にしていませんでした。
そのときは、ただのホクロだと思っていましたし、むしろ、頭のてっぺんにあった別のホクロの方が気になっていたぐらいで、すぐには病院に行きませんでした。
ある日、買い物帰りにたまたま皮膚科が空いていたので受診したところ、先生から「メラノーマっていうホクロのがんかもしれないので、検査しましょう」と言われたのが、受診までの経緯です。
徳永さんよりご提供いただいた“メラノーマ”の実際の画像と受診時のカルテ。
■がんと分かるまでの経緯
・手術嫌だなぁ
最初にかかった病院では、メラノーマだと確定されたわけでは無くて「メラノーマかもしれないので、とりあえず検査してみましょう」といった感じでした。私としては、メラノーマという事よりも、“初めての手術”をすることの方が大変な事に思え、その場で返事はせずに、「家族と相談します」と伝えて帰りました。
家族との話し合いの結果、“取って検査を受けた方がいい”という事になり、手術の予約をする事にしました。GW明けに予約をしましたが、それまで大きなケガも手術もした事が無かったので、サクッと取れるかも分からなかったので不安でたまりませんでした。
・最初の転院
ところがいざ手術の当日病院へ行くと、先生の口から「大きくなっている気がするから、設備の整った病院で最初から調べた方がいい」と言われ、予定していたその日の手術は無くなり、用意して貰った紹介状を持って家の近くの総合病院に転院する事になりました。
・総合病院にて
予約をすると先になってしまうとの事だったので、最初に受診した日の翌々日には、紹介状を持ち、朝から病院へ行きました。
お昼過ぎになってようやく私が受診する番になりました。たくさんの先生に取り囲まれ、診察中は、ただただ不安な気持ちでした。
その日に取ると思っていたのですが、「この日に手術だからこの日に入院。今日は入院の手続きをして帰って。」と矢継ぎ早に言われて、びっくりしてパニックになりました。でも、言われた通り、血液検査をして手術の予約を終えて、家族に電話で今日言われた今後の予定を伝えました。
手術にはいくつか段階があり、とりあえず原発を切って検査に出す。メラノーマだったら、センチネルリンパ節生検が出来る病院に移り次の手術が必要。
肩は基本的に皮膚が突っ張っている状態なので、お腹かお尻から皮膚を持ってきて植皮になる事などです。入院も思ったより長く、2週間だか1ヶ月だか、とにかく長い。その間の仕事の事や元々入っていた予定の事が気になり「えっ!どうしよう!!」と驚きと戸惑いに襲われました。
■セカンドオピニオン
・セカンドオピニオン、3つの問題
電話で話を聞いてくれた母からの「落ち着いて。他の病院で診て貰わなくていいの?」という言葉でセカンドオピニオンを取る事にしました。
セカンドオピニオンについて調べてみると、「予約をしなくてはいけない」「時間がかかる」「高い」と。手術の日取りは決まっていて、時間も無くどうやって探したのか覚えていませんが、多分「メラノーマ」で凄く調べて、メラノーマの本を出している先生を見つけました。
でも、診療所はホームページが無くて、口コミサイトを見て診療所の場所を探し出しました。翌日には「メラノーマかもしれないホクロがある」と診療所に電話していました。電話口から「医院長先生は療養中でおりませんが、別のがんセンターから来ている先生がいます。」と返答がありました。
小さい病院なので予約制では無く、「普通に来てください。」と言われました。総合病院を受診したときも、予約をせずに行き、待ち時間がとても長かったので“また長く待つのかな?”と心配になりましたが、その週末、朝から待つ覚悟で病院に向かいました。
・町の小さな診療所
本まで書いているような著名な先生の診療所なのに、行ってみると、町の普通の病院で、カーテン1枚で待合室と診療室が仕切られているようなかんじで、診療室の中の話し声なんて丸聞こえなんです。(笑)ただ、そこにいた患者さんが、地域のおばちゃんとか子どもとかおじいさんとか。老若男女いて、看護師さんもおばあちゃんの看護師さんで、「何て好感が持てる!」と思い、呼ばれて入った診療室には、感じのいい女医さんが座っていました。これまでの経緯や植皮に抵抗がある事などを話すと、「ここで取って検査をすることも出来るけど、がんセンターを紹介する事も出来ますよ」と言われ、がんセンターにはメラノーマの治療や研究を頑張っている山崎先生というドクターがいるので、「その先生に診て貰って植皮がいいって言われたら、植皮にすればいいんじゃないの?」と言ってくれました。その時点でがんセンターの名前しか知らなくて、どこにあるんだろうというレベルでしたが、紹介状を書いて貰い、がんセンターに行くことにしました。
・がんセンターへ
自分でがんセンターに行きたくて行った訳では無いけれど、結果的にがんセンターを紹介して貰って良かったなと思います。
がんセンターに行くと決まってから、がんセンターの事と山崎直也先生のことについて調べました。がんセンターの前は築地だから海鮮丼食べられるし、眺めのいいキレイなホテルみたいだな、とか。(笑)山崎先生については、皮膚についてのコメントを書かれているものを読んだり、キャンサーネットジャパンの「もっと知って欲しいシリーズ」メラノーマ・黒色腫・皮膚がんの会の動画で話されているのも見つけました。
その動画を何回も何回も観るうちに、“この先生になら安心して任せられそう”という気になりました。家族にも、その動画を観て貰いました。
がんセンターでの初診の日から入院の日まで、検査や診察で毎週のようにがんセンターに通って、心配な事や気になる事を聞いたりしていました。山崎先生の診断は、最初からほぼ100パーセントでメラノーマだろうという事だったので、手術は原発を拡大して取るのと同時にセンチネルリンパ節生検という、がんが最初に行き着くリンパ節を取り、術中に検査をするというものでした。検査の結果が陽性だったらリンパ節は郭清して、陰性だったら郭清しないでそのまま終わるので、検査の結果次第で手術の長さが変わりますと説明を受けました。
■手術で辛かったこと
傷自体も痛かったのですが。傷の痛みより、黒い糸で縫われた想像より大きな原発の傷跡を見たとき、ショックでした。
こう…バサッと切られた感があって、「こんなに大きいんだな…」って。手術後、突っ張っているような感覚があり、パカッと傷が開いちゃうんじゃないかと思って怖くてなかなか手や肩を動かせないままでした。退院後も動かさなかったせいで固まってしまったので30度くらいしか腕が上がらず、本当に動きずらかったです。
3年経って腕は上がるようになりましたが、未だにつっぱりとピリピリする違和感はぬぐえないので、もっと早く動かせばよかったと思いました。
でも、こういうものだと慣れました。
■転移
・センチネルリンパ節の検査結果
手術中の迅速検査結果では“転移は無し”だったのですが、じっくり調べた病理検査の結果が出てみると“微小転移あり”でした。
最初の手術で転移が無いって事はもう大丈夫だろうと思って、仕事の復帰の事や友人との約束の事などを考えてウキウキしていたので、転移があった事を告げられたときは、最初にメラノーマだと診断されたときよりもショックが大きかったです。ちょっとぬか喜びしちゃったんですよね。
山崎先生からは、「手術の予約は取ってあるけど、一応聞くけど。やる?やらない?」って聞かれて。「1回やって手術自体、懲り懲りっていう人もいるから」と。「やった方がいいんですか?」と尋ねたところ、「やった方がいいと思うね。」という事だったので、2回目の手術を決めました。2回目の手術もまた結構大きくて。
1回目のときより痛みも強くしばらく熱や気分の悪さが続きました。動かさなきゃいけないと思っていたのですが、ズキズキ痛いし怖いし、なかなか動かせませんでした。
・2回目の手術
2回目の手術が終わって病理検査の結果、転移はありませんでした。抗がん剤治療に関しては、当時はメラノーマの抗がん剤はあまり効かないので、何もやらないと不安な人向けの“インターフェロン”という治療をすることになりました。私の場合は、インターフェロンを原発とセンチネルリンパ節を取ったところに2本6箇所にププププ~っと注射します。最初は10日間入院で連注、その後は1ヶ月に1回通院で行いました。
■告知に関して思うこと
告知に関しては、出来ればぬか喜びしたくないので、ちゃんと病理結果が出てから伝えて欲しいと思います。(今は伝え方が少し変わったと聞きます)でも、病理検査の結果が出るまでの待つ間の『グレーゾーン』も、多分しんどいと思います。白黒ついてしまえば、そこから先どうしていこうかって考えやすいと思うので。
■入院中の仕事と収入面
・仕事
丁度、私が病気をする前に旦那さんが病気をしていたので、そのタイミングで社員を辞めていたんですよね。アルバイトになっていましたが、付き合いの長い会社だったこともあり「良くなったら戻ってきなよ。」と言ってくれていたので、そんなに心配はしていませんでした。
フリーの仕事も、「少しお休みします。」という感じで引き継ぎをしました。
・収入面
収入面は、主に保険でした。それも、その年の初めに保険料の見直しをして新しく外資の保険に加入する事に。
以前の保険を解約をしようと思っていてそのままになっていたので、ダブルで保険に入っていたんです!ダブルで入っていた上に、解約しようと思っていた方の保険は“がんになったら保険料の支払いの必要が無くなり、保障は65歳まで”という内容だったので、すっごく助かりました。そこから入院・手術費などを払っていたので、金銭面で不安になる事はほぼ無かったですね。
■その他に辛かった事
仲間のがんが進行したり、命を失う事が本当に辛いですね。遺された人は、大切な人が亡くなったとき、自分が生き残っていることに大きな不安と負い目を感じる事が多いと思います。自分が“生かされたんだ”という思いから、自分に出来る事があればしてみたいです。
■病気から学んだ事
それまでの私は、仕事が大好きで仕事で遅くなることもありました。家族や親からは「そんなに仕事やったってしょうがないんだから、考えなさいよ」と言われていましたが、そういう自分も大好きだったんです。でも、病気になって初めて、仕事が一番じゃないんだなと痛感しました。
旦那さんも私より数か月前に病気になっていたので、お互いに「これはちょっと見直さなきやいけないね。」という話し合いをして優先すべきは仕事じゃないとそのとき本当に分かりました。
■国や医療に望む事
専門の先生が点在していない事や拠点病院の有る無しなど、希少がんの患者さんに対してケアがあればいいなと思います。
例えば、沖縄から東京に治療を受けにくる患者さんなら旅費や宿泊費もかかる。そういうのを国で補助されたらいいなと思います。
メラノーマはお薬がない状態で数十年きていて、今はどんどん承認されて行っています。今後もドラックラグが解消され、治療の選択肢がもっと増えて欲しいです。
■フリーコメント
皮膚がんって目に見えるがんなんですよね。早期発見できれば、手術だけで終わる事もあるので、【怪しかったら病院に行く】っていう事をやって貰いたいです。
インタビューを終えて
明るく笑顔が印象的な徳永さんのインタビューはその親しみやすい性格と同世代という事もあってとてもリラックスして行うことが出来ました。
私もそうだったのでとても共感できた話があります。死を意識するような出来事を経験された方は人生観が変わる場合があるようなのですが、徳永さんの場合も同様で自身を仕事人間というほど「仕事」が1番と思っていたのが「家族」へと変化したとの事でした。大切なことに気が付くことが出来たともおっしゃっていました。悪い事ばかりではなく、体験者だからこそ学べる事があるのだと思います。
そしてとても印象的だったのが、自分の辛い体験談であっても明るい口調でお話されていた中で、唯一涙を流しながらお話をされたエピソードです。それは大切な仲間が亡くなってしまうという話をされた時です。徳永さんにとって何よりも辛い事なのだと思います。
悲しみを乗り越え、自分の今と向き合いこれからの事をしっかり考える強さをもらったという徳永さん。メラノーマ患者会OVER THE RAINBOWの代表を務め、患者さん同士の交流会の実施やメラノーマについての啓発活動などなど、精力的に活動されています。尊敬すると共に心から応援をしたいと思います。
■OVER THE RAINBOWについての紹介
徳永さんが代表を務める患者会
OVER THE RAINBOW
メラノーマ(悪性黒色腫)の患者とその家族のための患者会
AYA世代とは?
AYAとは、Adolescent and young Adult(アドレッセント アンド ヤング アダルト)の略であり、「思春期と若年成人」という意味です。AYA世代とは、一般的に15歳~29歳(欧米では39歳)を指します。AYA世代のがん患者は、治療中やその後の生活の中で、就学、就職、就労、恋愛、結婚、出産など人生のターニングポイントとなる様々な出来事と向き合う機会が想定され、大人・高齢のがん患者とは異なるAYA世代特有の問題があるとされています。