ITベンチャー企業の代表取締役社長として、国内外を飛び回っていた高山知朗さん。娘が生まれ、仕事もプライベートも充実していた40歳の時、唐突に目の前に現れたのは、「5年生存率25%」の悪性脳腫瘍でした。
その後も、42歳で悪性リンパ腫、46歳で急性骨髄性白血病と、合計3度のがんを発症。そんな中、高山さんが常に目標として心に抱いていたのは「娘の二十歳の誕生日に家族三人でおいしいお酒で乾杯してお祝いする。」ということでした。その目標を達成するため、そして未来に活路を見出すために、高山さんが行っていたこととは……!? インタビュー第1弾(全2回)
目次
「とにかく、あと19年は生きたい」
鳥井:最初のがん(悪性脳腫瘍)は、どのように見つかったのでしょうか。
高山:2011年の海外出張中にチューリッヒの空港で意識を失って倒れてしまい、異常に気付きました。帰国後、脳神経外科を受診したら、脳に腫瘍があるとのこと。長年の友人であり放射線腫瘍医のT君に相談したところ、彼は画像を見て「これは、がんだろう」と言いました。
結果は、グレード3か4の悪性脳腫瘍。5年生存率は、グレード3で25%、グレード4で6%。グレードがどちらになるかは、手術をしてみないとわからないとのことでした。
鳥井:その時のお気持ちは?
高山:腫瘍があると言われた時は、びっくりはしたけれど「ああ、ついにきたか」と思いました。父親が舌がんで亡くなり、妹は乳がんで30歳の時に亡くなっていました。姉も20代で乳がんにかかっていたので、自分もいずれがんになるんじゃないかとは思っていたんです。
でも、「ちゃんと調べて治療法を模索していけば、がんは治せる病気」という意識はありました。家族ががんになっていろいろと調べていたために、すでにある程度の知識はありましたし、妹と父は亡くなったけれど姉は生きています。私も治せる道は必ずあるはずだと思っていました。
がんを告知された時よりもショックだったのは、生存率を聞いた時です。「自分は死ぬのかな」と思いました。
鳥井:それでも生きようと強く思ったのには、何があったのでしょうか。
高山:当時、私の娘がまだ1歳でした。「娘が二十歳になるまでは、自分は絶対に死なない」という思いがあったんです。
鳥井:それからの治療はどのように行いましたか。
高山:まずはどこで治療するかを考えました。T君には、「脳腫瘍の場合は、病院をしっかり選ぶことが大切。東京女子医科大学病院(以下、女子医大)は、手術室の中にMRIがあり、取り残しがなく手術できる。自分が高山と同じ立場だったら、女子医大で手術を受ける」と言われました。
女子医大は、術中MRIを開発したために、脳腫瘍の5年生存率が平均より高い。グレード3なら78%、4なら13%(2011年当時)です。ありがたいことに、T君の兄が女子医大の医師で、診察や手術の手配をしてくれました。
鳥井:手術には後遺症が残るリスクもあると聞きますが。
高山:手術は、半身不随、もしくは視野が半分くらいになる可能性もあるとのことでした。でも、私の望みは「とにかく、あと19年は生きられること」。主治医にもそのように伝えました。
手術後の結果はグレード3。腫瘍はほぼ全部取れたとのお話でした。その時「自分は生きられるんだ」と思いました。ただ、やはり後遺症は残り、視野の左下4分の1が見えなくなりました。でも命には変えられません。手術の結果には100%満足しています。
闘病ブログの執筆は、患者さんのため、そして医療者への恩返し
鳥井:高山さんは、ブログ(オーシャンブリッジ高山のブログ)を書かれていますね。闘病経験を書こうと思った理由をお聞かせください。
高山:これから治療をする患者さんに、生き抜くために知っておいてほしいことがあると思い、書き始めました。
治療後に思ったのは、私には“たまたま” がんの専門家であるT君が身近にいて、“たまたま”T君が、脳腫瘍の治療成績は女子医大が優れていると知っていたから、最善の病院を選ぶことができたということ。でも、普通の人は「病院によって、3倍も生存率が変わってくる」なんてことを知らないですよね。それは良くないんじゃないかと思い、ブログで情報発信していこうと思いました。
病院選びだけではなく、自分が入院して、医師からどんな説明を受け、どんな気持ちで手術を受け、術後の経過はどうだったのか、そうした経験を発信することは、これから治療を受ける患者さんの役に立つのではないか、とも考えました。
さらに、それを書いている人(=私)が今も実際に“生きている”ということは、それを読んだ患者さんの希望にもなると思いました。「自分と同じ病気(脳腫瘍)になった人が、病気を乗り越えて、今でも元気にブログを書いている」「自分も同じように病気を乗り越えて、これからも家族と生きていくことができるはず」という希望を持ってもらうことになるのではないかと思っています。
このようにブログ等での情報発信を通じて、がん患者さんやそのご家族のお役に立っていくことが、実際に命を救ってくれた先生や看護師さん、そしてT君への間接的な恩返しになるはずだと思っています。命を救ってもらったお礼は、とても直接的にお返しできるものではありませんから。
でも実は、直接的にも医師の役に立っていたことを後で知りました。ある定期診察のとき、主治医から「高山さんのブログや本を読んでから来る患者さんが増えているのですが、みなさん病気や手術についての基本的なことはブログや本で学んできてくれるので、診察や術前の説明のときに治療の本質的な話にすぐに入れるようになりました」と言われました。
鳥井:ブログだけではなく、『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』(幻冬舎)という本も出版しました。読者からの反響はいかがですか。
高山:「がんと言われて目の前が真っ暗になりましたが、高山さんの本を読んで希望が持てるようになりました。高山さんは希望の星です」「自分も高山さんと同じように、子供が成人するまで生きるのが目標です」というようなことを言われることが多いですね。
また、「高山さんの本をお守り代わりに病室に置いています」、さらには「前の病院では『もう治療法はありません』と言われましたが、高山さんの本を読んで病院を変えたら、『がんばって治しましょう』と言ってもらえました」と言われたことも一度ではありません。実際に自分の情報発信が世の中の役に立っているんだと思うと、すごくうれしいです。
本は、2回目にかかった悪性リンパ腫の後に書いたのですが、その後、昨年(2017年)に3回目のがん、急性骨髄性白血病になり、入院してしまいました。すると、同じ病室に入院されていた全員が私の本を読んでいたということがありました。
『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』というタイトルで、自分はこうしてがんを乗り越えた、と偉そうなことを書いていたのに、結局またがんになってしまった。だからちょっと居心地が悪かったですね(笑)。結果的には3度目もほぼ乗り越えつつあるので良いのですが。
生存率の低いがんと対峙しながらも、自ら活路を開いていくために
鳥井:高山さんのブログにはネガティブな雰囲気がなく、とても客観的に書かれていると感じました。
高山:よくそのように言われるのですが、それを意識しているつもりはありません。おそらく、普段から何事に対してもポジティブかつ客観的にとらえているから、それが表れているのかもしれません。
鳥井:多くのがん患者さんは、不安にさいなまれてしまいます。高山さんは、具体的にはどのように、がんと向き合っていたのでしょうか。
高山:もちろん私も、怖いと思ったことはあるし、不安もあります。でも、それに完全にそれに取り込まれないことが大事。将来が不安、再発が怖いなどの感情が大きくなり過ぎてがんに取り込まれてしまうと、正しい判断ができなくなるし、周囲にも心配をかけてしまいます。
私には、「二十歳になった娘のお祝いで家族三人でお酒を飲む」という当面の目標がありました。それを達成するためにはどうすべきか。そのためには客観的に現状を把握して、必要な情報を集め、いかに生きられる方の確率、いわば生存率の狭き門にすべりこむかを考えました。「絶対にすべりこめる、治せるはずだ」とずっと思っていました。
鳥井:コンサル的な、考え方ですね。ゴールを設定して、現在の状況を客観的に分析して、現状とゴールのギャップを埋めるアクションを行うということをご自身の病気でもされたのですね。2度目のがん(悪性リンパ腫)では、ご自身ではどんなことを行いましたか。
高山:2度目の時は、生存率が40%。「高山さんのがんには標準治療が確立されていて、いずれの病院でも同じ治療を行う。どこへ行っても生存率は変わらない」とのことでした。それでも、「きっと、標準治療を超えた治療を模索してくれる医師もいるはず」と思いました。調べたところ、虎の門病院の谷口修一先生に行き当たりました。
谷口先生は、「最善の治療は教科書にはない。患者の中にある。だから教科書は読むものではなく、患者を見て最善の治療を見極め、自分で書いていくもの」と語っている医師です。谷口先生に初めて診察室でお会いした時、私の娘は3歳。「あと17年生きられるようにしてください」と言ったら、谷口先生は「じゃあ、治しにいきましょう」と言ってくれました。うれしかったですね。
しかしそれからも、造血幹細胞移植をするかどうかで悩みました。移植には、当然メリットがありますが、亡くなる可能性も2〜3割あります。もしも化学療法だけで治るならそちらを選びたい。そのため、たくさんの海外論文を調べました。結果、移植はせずに化学療法だけで治療することを選択し、寛解までこぎつけることができました。もちろんその後も再発はありません。
鳥井:3度目の急性骨髄性白血病では、対処の仕方に違いがありましたか。
高山:3度目は、医師に最初から「造血幹細胞移植をしなければ治らない」と言われました。いくつかの論文を確認しても、移植を前提にしているものしかなかったため、治療法を模索することはやめました。その代わりに、「とにかく目の前の治療を一つ一つ乗り越えていくことに集中しよう」と考えました。
でも、移植治療中には毎日本当にいろいろな症状が現れます。40度を超える高熱、胃にドリルを突き立てられるような激しい腹痛、トイレから出て来られなくなるほどのひどい下痢など、日替わりどころか数時間おきに別の症状が出てきます。真夜中に先生を呼び出してしまったことも何度もありました。
ですので、とにかく気持ちが折れないようにしていました。気持ちが折れてしまったら、治療の効果は違ってくると思うんです。朦朧とする意識の中でも、「この辛い治療を乗り越えれば、家族の待つ家に帰れるんだ」という思い、希望は、ずっと心の中から消えることはありませんでした。辛いときはいつも、枕元の家族写真を見て、「絶対に乗り越えて、この家族の元に帰るんだ」と思っていました。この「希望」が、いつも心の奥底にあったから、辛い治療を乗り越えることができたのだと思います。
また、「がんが治っていく」というイメージを持つことも、自分の体によい影響を及ぼすのではないかなと思っていました。
鳥井:その時々に応じて、対処の仕方を変えていっているのですね。それでも見ている方向は、“常に前”であるように感じました。
高山:自分の状況を理解し、自分にできることをひとつひとつ積み上げていき、生き残れるところに入っていく。低い生存率の中にどうやって入っていけるか、自分の目標を達成できるようにするには、どうすべきかを判断していくことが大切だと思います。信念を持って、自分の行きたい方向へ向かうための情報を探していけば、道は開けていくんじゃないかと思っています。
◇
3度のがんに遭遇しつつも、着実に道を開いていく高山さんにお話をうかがいました。第2弾では、「情報を得る方法」「心配事への対処法」「家族」、そして「経営者として」をうかがいます。お楽しみに!
次回記事はこちら:「娘が二十歳になるまでは、絶対に死なない」――みずからの目標を達成するために、患者ができること(2)
治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ (幻冬舎単行本) 高山知朗著
インタビュアー:鳥井大吾
写真・文:木口マリ