■骨肉腫患者の母
名前:早乙女 泰子(さおとめ やすこ)
年齢:55歳
性別:女性
居住:千葉
職業:翻訳者
資格:精神保健福祉士
■亡くなった患者名:早乙女 能(さおとめ すぐる)
享年:19歳
性別:男性
居住:千葉
学歴:麗澤高校卒業
がん種:骨肉腫
目次
足の痛みの原因が骨肉腫という発想がなかった
二男・能(すぐる)が、左足が痛いと言い始めたのがいつごろだったか、はっきり覚えていません。
当時、地元の公立中学2年生で、陸上部の部員でした。2006年の冬ころだと思いますが、私も家族も、記憶に残るほど気にしていなかったのです。スープの冷めない距離に住む彼の祖母が、近所の整形外科医院に何度か連れて行ってくれましたが、そのたびに筋肉痛と診断され、湿布をもらってきました。
翌2007年2月のある日、会社にいた私に、中学の担任の先生から、能が体育の時間に左足を骨折して入院した、と連絡がありました。
私は、「男の子は活発だから、骨折することもあるのだろう」などと、のんきに思いつつ、地元の総合病院の整形外科に行きました。彼は左足を吊り、真っ青な顔をしていましたが、私は「骨折したんだってね」と、失敗を笑い飛ばすように声をかけ、実際に心配していませんでした。
次の日、整形外科の若い医師から、会社にいた私に「話があるので来てほしい」と電話があり、「今は仕事で行けません」と返事をすると、「遅い時間でもいいから来てください」とのこと。
急ぎもせず、夜9時近くに到着した病院で、左大腿骨の骨折部分のレントゲン写真を見ながら、「骨折した部分に異常がある。骨肉腫など悪い病気の可能性があるので、私の大学時代の先生に精密検査をお願いしました」と説明されました。
健康な骨でも強い力がかかって折れてしまうのが普通の骨折ですが、能の場合、強い力はかかっていないのに折れてしまう病的骨折とのことでした。
「治らなかったら私のせい」 自分を責める
翌日、救急車で都内のがん診療連携拠点病院に移りました。能と一緒に救急車に乗りながら、私にもさすがに事態の重さがわかってきました。生検の結果は骨肉腫。転移はなく、化学療法と手術の標準治療を行うこと、5年生存率は70%などの説明を受けました。
骨折により、がん細胞を散らしてしまったことが不利とのことでした。私は、もし治らなかったら、骨折するまで放置していた私の責任だと思いました。
医師が能に病名と治療の説明をした後、いつもクールな能が、「骨肉腫は『ブラックジャック』で知っている。ぼくはがんなんだ」と泣いていました。私は彼の前では、楽観を装いましたが、廊下で1人で泣きました。
手術では、左大腿骨を人工骨に置換し、足は温存できました。松葉杖なしでは歩けませんでしたが。しかしこれでもラッキーで、骨肉腫のため、手足を温存できずに切断しなければならない患者さんもいます。
骨肉腫は子供や若者に主に発生するがんです。100万人に1人という稀な病気ですが、別な言い方をすると、その確率で子供の誰かが必ずかかる。骨肉腫について無知だった自分を、私は今も責めています。能が骨折する前に、骨肉腫のような重い病気の可能性を考え、総合病院に行っていれば、より良い条件で治療が受けられたかもしれません。
標準治療後、高校に合格。制服姿で自室でペットのリッキー(犬種パピヨン、メス)と一緒に
再発後、治らないと宣告される
約1年間の標準治療ののち退院し、能は親友と一緒に希望していた私立の高校に合格しました。大好きな運動が全くできない生活でしたが、学校には元気に楽しそうに通っていました。しかし、それも経過観察中の2009年に、両肺多発転移と骨盤転移がわかって中断。
主治医とセカンドオピニオンを受けた医師から、「もう治らない」と宣告を受けました。私はどうしていいかわからず、公益財団法人「がんの子どもを守る会」に相談に行き、国立がんセンター中央病院(当時)整形外科の川井章先生に会わせてもらいました。
川井先生の意見も主治医らと同じでしたが、私が「どこも能の治療を引き受けてくれません。どうか治療してください」と泣いてお願いし、なんとか入院させてもらうことができました。
国立がんセンターでは、肺転移を25か所切除。骨盤の転移は放医研・重粒子センター病院で重粒子線照射しました(当時は保険医療ではありませんでした)。しかし、2010年に骨盤の再発がわかり、重粒子線を再照射。肺も再発し、国立がんセンターでラジオ波焼灼術を受けました。
翌年、骨盤、両肺ともまた再発し、余命1年と宣告。腹腔にも転移して腸閉塞になり、人工肛門を増設。その後、本人の希望で退院し、自宅に近い在宅医療専門の「あおぞら診療所」による緩和ケアを受け、2012年1月に自宅で亡くなりました。
再発後の入院から自宅に戻り、食事をしている様子。化学療法で抜けた髪がはえてきたころで、元は直毛なのに、なぜかカールがかっている。
小児がんは子供の主な死因。もっと啓発キャンペーンを
証明はできませんが、もし私に骨肉腫の知識があって、早期に疑いを持っていたら、能の命を助けられたかもしれないと思うことが、今もよくあります。また、私が無知でも、地元医院や学校の先生などで疑いを持つ人がいてくれたら、また違った結果になったかもと思うこともあります。
厚労省の死因順位の調査では、「悪性新生物」は1~4歳3位、5~9歳1位、10~14歳1位、15~19歳3位です。※1 大人と比べ、人数は少ないですが、がんは子供の死因としても主要なものなのです。白血病や骨肉腫は良く知られた病気でもあります。しかし、私が闘病を通じて知り合った母親たちは、「まさかうちの子が骨肉腫になるとは」と口をそろえていました。
子供や親を過剰を心配させたくありませんが、子供を守るための常識として、大人のがんと同じように、小児がんについての啓発がもっと必要だと思います。
再発後も自宅では、ほとんどの時間、ガンプラかオンラインゲームに集中している様子だった。手前は長男。長男の手元にはリッキーもいる。亡くなる前、寝たきりになっても、オンラインゲーム「モンスターハンター」をやっていて、ネット上だけの仲間とチームを組んでいた。意識が薄れるまで「モンハン」を続け、チームの仲間は能のキャラクターの動きから、彼に何かあったと気付いていたらしい。
何ができるか?
能の死後、私は地元の千葉県がんセンターと千葉大学が 「ファイト!小児がんプロジェクト」を行っていることを知りました。IBM社の「World Community Grid」を活用したコンピュータ・シミュレーションにより、小児がんの新薬を創出する試みです。
骨肉腫はプロジェクトの対象ではなかったので、私は1人で担当の医師に会いに行き、骨肉腫も対象にしてくださいと頼みました。しばらくして対象になったという連絡をもらえたので、本当に感謝しています。
プロジェクトの医師たちによると、小児がんは件数が少ないため、製薬会社は利益の面から、創薬に積極的になれないそうです。「オンコロ」に紹介される多数の治験情報の中にも、小児がん関係は少ないように思います。
また、大人の患者は、新薬や治験の情報を自分で見つけたり、治療法開発を自ら働きかけたりすることができます。しかし子供にはできません。子供は弱い立場にあり、守ってあげなければなりません。
私は年齢的にもう医師にはなれませんが、少しでも医学に関係のある資格を取りたいと思い、2017年に精神保健福祉士の資格を取りました。ボランティアで、患者さんや家族の話を傾聴したりできるかもしれないと思います。
それから、親が小児がんについて知識を持つように啓発活動のようなことがしたいです。たとえば、乳がんでは様々なキャンペーンが行われ、ピンクリボンは知名度が高いです。小児がんのゴールドリボンとピンクリボンをつなげて、親子一緒の対がんキャンペーンができないでしょうか?
また学校での保健の授業や、「命の授業」のイベントで、小児がん経験者の講義を行うなどできないでしょうか?
患者が少数で各地に散らばっているため、治験が難しいという話も聞きますので、海外の患者さんも含め、患者(の家族)が自らまとまって治験を申し入れることもできるのでは?と考えています。
こうしたことをすでに考えたり、活動したりしている方々がいらっしゃれば、私もご一緒に少しでも役に立ちたいので教えていただきたいですし、これから何かしたいという方々とも協力し合えたら嬉しいです。もしご興味ある方は下記よりメールいただけますと幸いです。
■早乙女 泰子
saotome2125-yasu@yahoo.co.jp
■ブログ:骨肉腫と私+α
https://ameblo.jp/saltfield/
現在の私とリッキー(14歳)。リッキーは小学5年生の能(すぐる)が望んで、ブリーダーさんから購入。能が亡くなる前、寝たきりだった時、「リッキーは僕と一緒に走るのが好きなんだよ」と残念そうに言っていた。リッキーも主人を失った時はしょんぼりしていた。私は能が置いていったリッキーの世話を引き継いでいる。
※1 平成28年人口動態統計月報年計(概数)の概況
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai16/index.html