友永綾美さん
芸能関係のお仕事をされています。
目次
左胸のシコリに気付いてから受診まで5カ月の期間
私が乳がんの告知を受けたのは、2019年の12月11日(50歳)でした。
その年の夏頃、左胸のアンダーラインに少々の痛みとシコリがあることに気付いたのです。
「下着のせいで痛いのかな?」など、できものが出来て痛い、という自覚症状でした。
それまでの私は、2006年に発覚した免疫疾患と2019年の5月に発覚した未破裂性脳動脈瘤という持病はあるものの、健康そのもので生活していました。
元々体も丈夫で、3か月毎の持病の検診で何も問題がないことで安心していました。
何よりも親族でがんに罹患した人が居なかったこともあり、「おそらくがんだけは無縁だ」と変な自信さえ持っていたのです。
ところが義父が末期の胃がんで早期に亡くなった矢先のことだったので、シコリを見つけた時は「あ…もしかしたら乳がんかもしれない」とドキっとしました。
すぐに検査に行く勇気も持てずに、持病の検診の担当医にシコリの事を報告し、乳腺外科の受診を勧められるまでに5カ月を要したというわけです。
がん告知が私に与えた衝撃
今までは持病である免疫疾患をきっかけに、ブログを通じて啓発活動やボランティア、財団やNPO法人の方との交流が広がり、講演会やSNSで様々な方に「早期発見の大切さ」を伝えていました。
定期的に検診を受けることが出来、健康に暮らせている現状から「病気になったからこそ得たもの」が大きかったと思っていましたから。
そんな私も「がん」に対しては一気にネガティブ思考にまっしぐらです。
「〝がんになったことで得るもの〟なんて本当はあるわけがない。綺麗ごとだ」と本気で感じました。私の周辺でがんに罹患した人が皆、亡くなっているのも大きかったのだと思います。
そんな思考で未来のことも考える意欲が薄れていました。
超ポジティブで視野が広いことが長所と思っていた私を一気にネガティブに変えるほど、がん告知の衝撃は大きかったです。
家族に告知したのは入院の1週間前
私はシングルマザーとして、30歳の娘と二人暮らしをしていました。母娘そろって芸能の仕事をしています。
娘に告知したのは入院予定日の1週間前。義父のがんによる死と、私の母の脳出血による失明の直後で、私までが「がん」だと知ったら娘は大きく落胆するだろうと感じましたし、入院予定日まで娘と一緒に仕事をする日もあるため、余計な心配もかけたくなかったのです。
入院までの1か月半、色々な検査で忙しく通院しなければいけなくて、娘に気付かれないように通院するのが大変でした。
娘以外に誰にもがんのことを話さなかった理由
周囲への告知も一切しませんでした。
「可哀そうと思われるだろうな」「絶望視されるんだろうな」と思っていたからです。
これは、自分ががんに対して、そういうイメージを持っていたから感じたのだと思います。
また、芸能の仕事は「競争社会」でもあります。ただでさえ50歳になれば嫌でも進退について考える時期。
あと5年、精一杯上り詰めたい!と思っていた矢先に治療生活に入るだなんて…。
仲間やクライアントは私に仕事を振るだろうか?心配、あるいは絶望視して、結局のところ仕事が来なくなるかもしれない…。
周りに負けた気がして心が折れた私は、娘に「今はまだ、仕事関係者に知られないようにしてほしい」と強くお願いしました。
「がん」であることを公表する時は、社会復帰できてからにしたい。今はまだ、向けられるかもしれない「ネガティブ」な視線を跳ねのけることはできないな…。
ある意味、プライドが高かっただけだなぁと今になると思います。
入院手術- がんの顔つきが良くないタイプのトリプルネガティブ
手術は年を越した2020年1月27日。名古屋でもコロナ感染者が見つかったころです。
これまでの間に仕事をこなし入院準備や医療保険の請求準備など、完璧に整えました。
手術は左胸全摘出。リンパ転移もあるため念のためレベル2までのリンパ郭清もしました。
乳房再建は考えませんでした。免疫疾患もあるため不要な手術は避けたほうが良いだろうと思いましたし、「胸が無くなっても別に何も気にならない。それよりも綺麗さっぱりがん細胞を取り除いてもらいたい」と思っていました。
術後に目が覚めた時は、痛み止めの効果と傷部分の麻痺のせいか、想像より傷の痛みはなかったのが救いです。でも術後の一晩、腰や背中の痛みに耐えることが本当につらかったのを覚えています。
でも絶食明けの朝食は完食!ベッドから起き上がった時は人生で味わったことのない解放感でしたね。
全てが初めての経験で、あっという間に10日間の入院生活が終わりました。
術後の病理検査で、トリプルネガティブであること、顔つきや進行度のグレードも悪いタイプであることを知ったのは抗がん剤直前の検診の時。退院後の体調回復で「もうがんの心配もないんだ」という錯覚に陥っていたため、目が覚めた瞬間でもあります。
抗がん剤治療が始まるまで~ウィッグやパッドの準備~
退院の数日後には親戚の引っ越し作業を無謀にも丸一日行い、抗がん剤初回予定日の2日前には舞台の仕事も早々にこなしました。ちょっと無理をしすぎたかなと思いますが、それくらい体調は良かったのです。
頭の中は「仕事の現場でいかに病気を悟られないか」「とにかく少しでもお手頃かつ自然に〝偽物〟たちを身に着けるか」ばかり。
パッドはいくつかネットで安く購入しましたが、重さやサイズの合うものを見つけるまでに3つほど失敗を重ねましたし、パッドを入れるブラジャーも値が張るため、手持ちのブラジャーにポケットを縫い付けました。
ウィッグも、まずは安いものを日常用に購入し、それがかなり不自然だったため、仕事の際にはサイズ計測したウィッグが必要な事を実感しセミオーダーできるウィッグを購入。
かなりの出費と手間がかかり、気持ちが落ち込みましたね。
特殊な悩み? 術後の着物着用について
衣装で時々着用する「着物」。これも頭を悩ませました。
ちょうど傷の付近に腰ひもやら伊達締めやら帯やら…いくつも〝きつく〟締め付けなくてはいけないという、こんな拷問に耐えられるだろうかと。
看護師さんも「確かに!着物着用についての体験談は聞いたことが無いから、もし良い方法を見つけたら私にも教えて下さい」とお願いされたほど、乳がん患者さんの着物問題については良い参考に出会えませんでした。
結局はコロナの感染拡大のために殆どの仕事が流れてしまい、術後の着物着用の機会もなく、体験談なんて無いままですが、今後のために着物着用の記録は取っておこうと思っています。
コロナ禍の抗がん剤治療・放射線治療
抗がん剤は2週間に1回で4クール、これを2種類で計8クールです。
がんになったら抗がん剤をしながら長く入院するものだと思っていましたが、通院治療ができるというだけで「病気と共存していける」という希望を感じましたね。
私の体が強靭なのか、抗がん剤の副作用による体の不調(吐気で寝込むなど)は殆どなかったのですが、2種類目の抗がん剤による〝腰から足にかけての痛み〟は本当に辛かったです。
また手足のしびれは、ピーク時は正座後の状態のように歩くのもままならず、爪も少し剥がれかけ、新しく靴を購入しなければいけないほど影響しました。
手足のしびれは今も残っています。それでも随分和らいでいます。
頭髪もエビデンス通りの時期に抜け始めました。
ですが世の中はコロナ渦。私たちの業界は仕事がほぼストップしてしまい、外へ出る事が殆どなくなりました。
胸のシルエットも、ウィッグが似合っているかも、眉毛やまつ毛が無い不自然さも、副作用と仕事の両立も、衣装のことも…全てが心配無用となってしまったのです。
また、皆に置いていかれるどころか皆も足止め状態ですから焦りをあまり感じることなく過ごせました。
幸か不幸か、と言えば私にとってコロナ禍のがん治療は幸いでしかありませんでした。本当に不思議な人生です。
抗がん剤治療期間中に間質性肺炎になってしまい、コロナ感染の検査を急遽受ける事態になり、結果が出るまで隔離病室に入ったこともありました。
夏の25日間の放射線治療も休まず頑張って通院!我が家は「ご出勤」と呼んでおりました。
放射線治療も体調に殆ど影響がなく、振り返れば抗がん剤の影響が多少あった程度で、私にとってのがん治療は全体的に副作用は軽かったと思います。
初めての1年検診
1年検診はがん発覚の時と違って凄い恐怖感を感じました。
これまでの間に、どこかが痛かったり腫れたりすると「再発・転移」が頭をよぎり、とにかく多くの時間「再発・転移の恐怖」を考えていました。
通院が終わってしまうと途端に心配になり神経質になってしまいますよね。
1年検診で異常なしの判断をいただいたので一先ず安心できましたが、今も何か不調があると「再発・転移」の恐怖を感じます。
かといって、何に気を付けたらいいのかなんて答えが見つかりません。
抗がん剤治療の説明の際、腫瘍内科の先生が、「そもそもがんになってしまったことに絶対の原因はないですよ。決して過去の自分を責めたりせず、好きなものを食べて笑顔で生きる事のほうがよほど健康的。」と言って下さり、安堵で思わず涙が溢れそうになったのを思い出します。
1年検診を終えて、がんに対して考える本音
告知当初に感じていた「がんになって得るものなんて本当は無い」という気持ちは今の時点でも変わりません。
やっぱりがんにはなりたくなかったし、できることなら緩やかに人生を閉じられるのが理想です。まだまだ仕事も頑張りたいですしね。
でも治療を経験して、がんも長く日常生活を送っていける時代だということは実感できました。
こうして写真や本名を出して自分の体験談を投稿しようと思ったことは、がんに罹患し、がんと共存していくことを受け入れられるようになってきている証だと思います。
私は仕事をする上での「見た目」をとても気にして頭を悩ませてはいたけれども、家では、胸が片方なかろうと全身の毛が無くなっても、その過程を十分楽しんできました。
「胸無し・毛無し」の姿を、娘と一緒に随分と愛でました。
命が永遠ではないことは平等だけれど、死を実感したり自分事として考えたりする機会がいつ来るのかは人それぞれ違います。
ありきたりですが自分では知り得ない「命の期限」までを満足いくまで歩き続けたい、と今は心から思っています。
文責:山﨑 和樹
この記事に利益相反はありません。